先週の話だけれど卓球の練習場が貸しきりで練習が出来なかったので練習相手の提案で院内銀山跡に行くイベント発生。
先週は写真を一杯撮りすぎて書く気が失せていたんだけれどせっかくなのでまとめてみました。
国道13号から由利本荘方面に抜ける国道108号に入って数分車を走らせると、院内銀山跡入り口の看板が見えます(最後に帰る時に撮ったので来た方向と反対の由利本荘側からの写真です)。
もう既に山の中ですがさらに山の中に入っていく感じです。
川の水もかなり綺麗です。
入ってすぐの場所に芭蕉翁の碑があります(本体はぶれてて撮影失敗しました。
天保十三年(1842)に院内銀山在住のはてなハイカー俳人らによって芭蕉翁百五拾回忌を期し建立されたもので文化的教養の普及を示す貴重な存在だそうです。
現在地はまだ地図の右端。俺達の旅はこれからだ!!
銀山町への唯一の入り口「十分一御番所(じゅうぶんいちごばんしょ)跡」。銀山内に入る者はここで所有物の査定をされその10分の1に相当のものを収めないと入れなかったそうです。
今思うと魂の10分の1を置いてきた感じです(でもその日の体重は全然軽くなっては無かったけど
現在は植林されて山の一部みたいな感じですが最大で一万人以上が暮らす町が広がっていたそうです。
明治期に海外の鉱山技師が住んでいた洋館跡は石段が残るのみです。階段右横の積み方がバラ(?)の花に見えるらしいですが良くわからず。しかし日本風の積み方ではなく鉱山技師による海外の建築影響があるのは確かそうです。
石段を上がると見事な洋館草むらが広がっていました。
異人館跡の先には院内銀山三番共葬墓地があり院内銀山で生涯を終えた方々の墓地があります。
墓にはまだ枯れていない献花などがあり後でよった院内銀山異人館の人に聞いたら自分の祖先などの墓があるのが判明した方が墓参に訪れているそうです。
個人の墓は罰が当たりそうだったので撮りませんでしたが道路から見える場所に豊前小倉藩士 官軍 小山勇墓とあったのでこれだけパチリ。官軍っていう勝ち組の響きに惹かれたんだろうな。
銀山に入山してきた小関太夫という白拍子が21歳の若さでなくなり一緒に暮らしていた男が主鈴坂(しゅれいざか)下に骨を埋めようとしたところ清水が湧きできたそうです。
それから三十数年後に老僧が小関清水の染の石に「南無阿弥陀仏」と名号を刻し供養して立ち去ったそうですが昭和52年の整地作業中に「小関太夫」と名号を刻した石が偶然にも発見されたらしいです。
小関清水の側には主鈴坂の碑が並んでいますが文字の判読が厳しい物もあります。
既に山の中ですが鉱山跡はまだ先です。
正楽寺跡は橋が渡れず遠くから眺めるのみ。石段の上にも碑がありました。
橋がこの状態なのでスペランカー先生並みの度胸がなければ渡れません。
途中いろいろありましたがようやく院内銀山跡に辿り着きました(一本道ですけど
車は通れますが軽トラが似合いそうな舗装に変わってきました。
坑道入口の前に金山(かなやま)神社に参拝しました。
地図だと神社は左上なので銀山的にはまだまだ入り口です。
立派な鳥居です。
鳥居をくぐって階段を登って行くと...
院内銀山上層役員の集会所や芸能上演の場として使われた長床(ながとこ、拝殿)があります。
長床のさらに上に本殿があります。
とても立派な社でした。
本殿に登る石段の途中に天満宮もありました。
そしてこれが母なる川・雄物川の源流。
本当の源流地点に行くには本格的な登山をする必要があります。
金山神社から少し進んでようやく本命の鉱山への入り口・五番坑にたどり着きました。
なんだこのダンジョン入り口。
鉱夫の唯一の入り口・五番坑は明治天皇の東北御巡幸中に立ち寄ったことから御幸坑(みゆきこう)と呼ばれれるようになったそうです。そして立ち寄った9月21日は国の鉱山記念日となったそうです。
御幸坑周辺は少し開けた感じです。
それにしてもなんで同じことを書いた碑が年度を変えてあるんでしょうね。バブルの頃は使う金があったのかな。
御幸坑の先は立入禁止です。しかしこういう所まで電気が来ていた跡があるのがすごいなあと思いました(おしまい
第二部「岩井堂洞くつ探訪」へ続く。








































